ALS患者さんの命を奪った二人の医師は許されません-被害に遭われた方へご冥福をお祈り致します

 京都市中京区に一人で暮らしていたALS患者さんのいのちが医師二人によって奪われた事件は皆さんも報道でご存じの事と思います。
 きょうと福祉倶楽部はいのちを奪われたかたに心から哀悼の意を捧げます。
 この事件を契機に「安楽死」「尊厳死」を議論すべきと言う論調が起きてきました。
しかし、この論調は問題の本質を見ているとはいえないと思います。
この患者さんは常日頃「死にたい」と表明していたと聞きます。ですが、「死にたい」の裏に隠されている表出されていない感情を汲み取ることがこの事件ではなされていたでしょうか?
 ハンディを負った人たちが生きる事には様々な困難がわが国では襲います。
 介護者がいない、介護者がいても介護サービスにはお金がかかる、社会がマイノリティであるLGBTや障がい者を「生産性がない」「(チュ-ブでつながれたお年寄りを)エイリアンみたい」(←これ、国会議員の発言ですよ)
 「公共の場では手がかかるから」と誹謗するなどなど。。。
 そんな情報が溢れる社会では当事者の方が安心して生きていくことは困難ではありませんか?
 誰もがある日、不慮の事故や病気で身体が動かなくなることは起こりえます。そして老いも誰にももれなく訪れるのです。
 その人たちを排除し続ける国で「生きたいんだ!」「幸せに暮らしたいんだ!」と主張することはむずかしい事です。
 そしてこの患者さんも現実の生活の中で様々なご苦労を体験しながら暮らしていたと思います。その中で発せられた「死にたい」の言葉。だから安楽死、尊厳死じゃないでしょ。
 身体が不自由になれば尊厳ある日常の暮らしがなぜ守られないのか。この課題を議論することこそ社会には求められています。
 この二人の医師はそんな大切な事を考えることもなく大切ないのちを奪いました。そして彼女を愛する人たちの心にも大きな傷を与えました。
 かつてナチスドイツは国家の財政を理由に多くの障がい者の人たちを虐殺しました。そして今、日本でも経済性だけで人の価値を論じる人々がいます。論じるだけでなくこの事件、神奈川県の障害者施設での大量殺人など歪んだ価値観が蔓延し、悲劇を生む社会になりました。
 いのちは平等。
 歪んだ価値観を良識の力で駆逐していかなければなりません。